はす向かいにて

柴沼千晴/日記や文章

2020/5/14

花をかたどったフィナンシェが、日常に溶け込むタイプの宝石のようだと思えたこと。誰が触ったかわからないトングで取る無防備なサラダバーが恋しいこと。季節にゆるされたわたしたちが堂々とひかりの下で肯定を交わしあう夏まで、あとどれくらいの陽射しが必要なのか考えている。

あのときそうしていれば、こちらを選んでおけば、あんなことが起きなければ、生まれる時代が違かったら。さまざまなニュースを目にするたび、誰かが選べなかった選択肢の先を思います。‪わたしが上辺のすこやかさを必死に守っているあいだに、それぞれの精神を削って何かを守ろうとしてきた人たちがいること、どちらが正しいとかでは決してなく、どちらもこの社会で暮らしを続けているという想像力だけは失わずにいたいと思う‬。