はす向かいにて

柴沼千晴/日記や文章

2020/5/11

日記を書こうと決めたのは、今日の昼下がり、こないだの最悪な休日に買っておいたちょっといいドリップコーヒーを入れようとしたらカップのふちに引っかけるツメがぼろっと取れてしまい、注いだお湯がコーヒーの粉で満たされていくのをぼうっと眺めているときだった。今日は何でもないただの月曜日で、変わり映えしないニュースと、春をまだ知らないままのわたしと、わたしを置いていくような燦々とした日差しが締めつけるリモートワークの部屋のそれぞれは本当に何でもないシーンだったけれど、こういうことは膨大な日々のなかですぐに忘れてしまうから、書き留めておくのもいいかもしれない、と単純にそう思ったのだ。

今日のこと。昨日のうちにポストに届いていたのに、どうしても取りに行けなかった分厚い小包は、書肆侃々房のオンラインショップで買った本だった。『ことばと』という文芸誌の創刊号に、ずっと気になっていたフェミニズムに関する本、それから岩手県盛岡市歌人・くどうれいんさんの新しいエッセイ集『うたうおばけ』。わたしはそれぞれの人生や暮らしに宿る物語を愛していたい、という気持ちが気づけば長らくずっとあって、きっと彼女もそうなんじゃないかと思っている。別に彼女のことを何も知らないけれど、勝手にそうだと決めつけている。最近触れたものだと、アマゾンプライムで久しぶりに観た『パターソン』やゴールデンウィークに時間をかけて読み返していたミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』も同じ理由で好きです。後者については何かの機会にしっかり書いておきたい。想像力の翼は、思いがけず突然にひろがるということ。一方で新しいものに出会う気概はわたしを見捨ててしまったようで、この数か月有意義なことはろくすっぽできていないのだけれど、これまでずっといとおしいと思ってきたものをいとおしいと思える気持ちだけはわたしを見放さないでね、と、実家から送られてきた大きな段ボールに潜んでいたパンダのぬいぐるみを撫でながら思う。

先述したドリップコーヒー事件がもし昨日起こっていたら、わたしはきっと泣きくずれて、食事ものどを通らず、生きる意味を見失っていた...…とさえ思ってしまうのだけれど、今日は真っ黒で無残によごれたカップを、いい香りだからとローテーブルに置いたままにできるほうのこころを持っていた。ラッキー。ネットフリックスとアマゾンプライムで配信がはじまったらしい『きみの鳥はうたえる』という映画で、染谷将太がコーヒーかすを灰皿みたいにするシーンが大好きで、いまここにたばこがあったら絶対にそうするのに、と思いながらいまもわたしのそばにある。残念ながら我が家にたばこはないので明日には捨てます。夕飯はピーマンの肉詰めと白菜のおひたしを作った。カネコアヤノを聴きながら料理をするだけの日々。

自分が大丈夫でいられる理由が自分の内側にもあればいいな、と祈る日々です。わたししか知らないわたしの事件はわたしだけのもので、そんなささやかさが毎日じゃなくてもいいから、わたしやわたし以外の誰かに訪れていることを想像しながら。わたしたちが愛してやまない、何も起こらないようで何かが起こっている物語たちは、きっとそんな風にできていると信じている。