日記本『生活の観客』『長い話』について
2025年は2回引っ越しをした。
一回目は2月、安達茉莉子『私の生活改善運動』を読んで、わたしもわたしの生活をちゃんと手づくりしたい、と思ったから。仕事も生活もめちゃくちゃな時期に、何か大きなものから逃れるように、スケジュールも体力もぎりぎりのところで住みかを移して、でもそのときのわたしにとってはそれがほんとうに必要なことで、タイルがかわいいキッチンで毎朝お湯を沸かしたり、一生ものの本棚を手に入れたりして、自分の暮らしをつくりはじめたのだった。
二回目は今月11月、こちらは意志とか決断とかそういうかっこいいのではなく、何だかそういう導きであれよあれよと決まったもので、気がついたら段ボールだらけの部屋で新刊の入稿をし、気がついたら新しい部屋に新しい日記本が届き、いまも正直よくわからないまま、しかしあっという間にからだが馴染んだ新しい部屋でこれを書いている。

日記を毎日つけることをはじめて、この冬で丸4年が経ちます。わたしは自己紹介をするときに「日記を書きます」と言い続けていて、肩書きではなく、日記をつけている、日記をやる、日記でやるということが、わたしにとって大事なことなのだとわかってきました。日記をつける自分にとって、生活は(言ってしまえば)この上なく大切なもので、でもその中には、自分の部屋で起こることや近い周囲のことだけではなくて、社会で働くことや人と関わること、何かを選び、選ばないことや遠くの土地を想像することのすべてが含まれている、ということもわかりました。
できごとの名前を挙げることには意味がないけれど、今年は、経験したことがないことがほんとうにいろいろと起きて、わたしの人生にはあんまり何も起こらないものだと思っていたのに、やはりそういうことでもないんだな、と思いました。そしてそれは同時に、自分に何も起きていなくても、わたしではない人には何かが起こり続けていて、それはじゅうぶん同じことなのだということ。それぞれのからだがそれぞれであることと、同じ地平でほどけたたましいのことをずっと考えている。
自分のことが全部わからなくなって、先行きのすべてを不安に思った日にも、年末に一年分の日記本をつくるということだけが疑わずに頭にあって、そうしたら当然、何かを見て、聞いて、自分の中に起こったことを残していくことになって、そうしたら自分のことが少しずつわかってきて、それは自分以外のことを想像することでもあって、そうこうしているうちに本が2冊できました。これはわたしの話でもあるし、わたし以外の誰かの話でもある。そうであってほしいと思っています。
自分ではない人のからだを引き受けて、その人のほんとうの気持ちをわかることはできなくても、それでも別の他者と話し出すために何かを表現すること、これは、自分には無関係だと思えてしまう世界のいろいろな問題や個人の声に対して関係を持つことを、あきらめないで生きていくための方法だと思った。
——『生活の観客』p195より
何かをつくるというときに、ごく個人的なわたしの事象ということではなく、ほんとうの〈現実〉を眺め渡して、見たものをほんとうに書く、ということができたなら。
――『長い話』p34より
2冊同時刊行にあたっては、セルフライナーノーツというものを書いてみました。そもそも日記はすべてセルフライナーノーツなのに、それでもなお、わたしは何かを説明しようとしていて、まだ誰かに何かを伝えようとしていて、積み上がった日記と同じ分だけの長い話を誰かに聞いてもらおうとしていて、同じくらい、その人の長い話を聞かせてほしいと思っている。何ておこがましいんだろう、と思いつつ、その表現や応答が、わたしやあなたを生かすということを信じているのもほんとうです。

生活の観客であるわたしが、自分の長い話をすることをはじめ、あなたの長い話を聞かせてほしいということを話し出すためには、2冊分、21万字のことばが必要で、笑ってしまうほど遠回りな、でもそれを受け止めてくれる日記という方法が、わたしにあってよかったです。明日は日記祭、来週には30歳、来年は何が起こって何が起こらないのか誰もわからないけれど、できるだけ遠い場所に行って、あるいは部屋の中で耳を澄ませて、人と出会って、話して、書いて、手を動かしては、それをかたちにしていくのだと思います。
こういうことを書くのは今日で最後、この先も日記をつけ続けることを疑わない今日があって、そんなことまで言うのはこわくてはずかしくて、先のことなんてやっぱり誰にもわからないけれど、まあそういうのもいいか、と今日のわたしは思っています。


<新刊情報>
『生活の観客』
他者や自分を見つめ、日記をつけることで一体何がわかるだろう? 休職や引っ越しといった著者個人の生活と世界へのまなざしが交わりながら、遠くの他者との関わりを思考するドキュメンタリーのような一冊。2025年1月~10月の日記と散文を収録。
『長い話』
演劇や音楽、文学などを鑑賞した日を纏めた日記エッセイ集。登場作品にkanekoayano、ヴァージニア・ウルフ、大崎清夏、バストリオ他。作品を通じて「それぞれの場所で暮らしていても、一緒に生きていると思えること」への思考を巡らせることで生まれた、『生活の観客』と対をなすもうひとつのまなざしのドキュメンタリー。
詳細:https://x.com/chiharushiba_/status/1992935829686436214?s=20
*いずれも2025年11月30日 第1刷発行
*第7回 日記祭にて初売り後、各地の書店で取り扱い(下記に一覧あり)
<第7回 日記祭 イベント概要>
開催日時: 2025年11月30日(日)11:00〜17:00
開催場所: BONUS TRACK(東京都世田谷区代田2-36-15)
主催: 日記屋 月日
協力: 散歩社
※ 雨天開催・荒天中止
https://note.com/nikki_tsukihi/n/n26c47102dc9c
<お取り扱い書店さまはこちら(12/25時点)>
(12/5)
✴︎川添い(秋田・雄和)
✴︎ボタン(宮城・仙台)
✴︎日記屋 月日(東京・下北沢)
✴︎青山ブックセンター(東京・表参道)
✴︎twililight(東京・三軒茶屋)
✴︎BREW BOOKS(東京・西荻窪)
✴︎本屋lighthouse(千葉・幕張)
✴︎本屋ブーケ(群馬・高崎)
✴︎本屋ヨット(静岡・三島)
✴︎本と喫茶畔(静岡・森町)
✴︎ON READING(愛知・名古屋)
✴︎図書室ふたつの月(三重・四日市)
✴︎CAVA BOOKS(京都・出町)
✴︎本のすみか(大阪・北加賀屋)
✴︎1003(兵庫・神戸)
✴︎本の栞(兵庫・神戸)
(12/10追記)
✴︎本屋とほん(奈良・大和郡山)
✴︎かみつれ文庫(和歌山・和歌山市)
(12/15追記)
✴︎本と古着serotonin(北海道・小樽)
✴︎本屋メガホン(京都・二条)
(12/19追記)
✴︎百年(東京・吉祥寺)
✴︎コモンハウス(東京・仙川)
✴︎葉々社(東京・梅屋敷)
✴︎恵文社一乗寺店(京都・一乗寺)
✴︎koyori(愛媛・松山)
(12/25追記)
(1/16追記)
✴︎裂け目(宮城・仙台)
✴︎ペンギン文庫(山形・山形市)
✴︎代官山 蔦屋書店(東京・代官山)
✴︎本屋B&B(東京・下北沢)
✴︎そぞろ書房(東京・高円寺)
✴︎カクカクブックス(岐阜・各務原)
✴︎ネコゼ書店(愛知・豊橋)
✴︎ブタコヤブックス(愛知・名古屋)
✴︎NEVER STOP THINKING(京都・西京極)
✴︎本と商い ある日、(沖縄・うるま市)
その他最新の情報はウェブサイトにまとめています
日記本『もっとも小さい日の出』について
2025.5.17 お取り扱い書店を更新しています
日記本の新刊の入稿を終えた3日後、気が抜けたところであっけなく今年2回目のコロナにかかり、その週末に観る予定だった演劇に行けなくなってしまった。果てとチーク『害悪』。この人たちの演劇をこれまでにも何度か観ていて、わたしはこの人たちの作品をちゃんと観るべきだと感じていて、だから発表されたときからそわそわした気持ちでいた。しかし現地には行けないので、行くはずだった日の観るはずだった時間に配信で観た。それが11月23日の土曜日で、それからまた2週間が経った。
* * *
明日は2024年12月8日の日曜日で、わたしは下北沢BONUS TRACKで開催される第5回日記祭に、新刊『もっとも小さい日の出』で参加します。毎日日記をつけることを始めて丸3年、わたしにとっても5回目の日記祭です。去年『親密圏のまばたき』という日記本を出したときにも、どんなことを思って本をつくったのかをここに書き残していて、今回もどうにかそれをやりたいのですが、いったい何が書けるか、わからないまま書き始めています。

『もっとも小さい日の出』には、2024年1月1日から11月2日までの日記と、日記を書くことにまつわるいくつかの散文を収録しています。昨年出した『親密圏のまばたき』は、人と人の固有な関係性や親密さについて書きたいと思ってつくった本でした。それからも日記をつける日々の中で、わたしは個人が個人であることやその関係性について考えていたいのだということがわかってきました。日記を毎日つけている理由をうまく説明することがいつもできなくて、だけれど、個人が個人であることに思いを馳せる、ということは、毎日日記をつけるということと密接につながっているとも感じていて、だから、日記を通じて日記を、あるいは生活をまるごとまなざす、ということをやってみようと思いました。それができているか自信はないのですが、そういう本をつくりました。
収録している日記は、2024年1月1日から始まります。もう誰の切実さも悲しみもないがしろにしたくないのに、自分の生活のうれしさとさみしさは当然のようにあり、それが、その誰かの切実さや悲しみからどのくらい離れたところにいるかは毛頭わからず、そこには、無力とか祈りとかいろいろな言葉があると思うのですが、それでもわたしは、またわたしのことを書いてしまった、という本です。なんて捉えどころがないのでしょう、と自分でも思いますが、でもそういう本が出来上がってしまいました。
「日記に書いていることは全部ほんとうで、だから何度だって書く」。そういうことをわたしは何度も書いてきました。わたしのうれしさやさみしさも全部ほんとうで、この瞬間の虐殺も震災も、出会ったことがない誰かが踏みつけられていることもほんとうで、全部ほんとうの世界のこと、じゃあわたしのうれしい暮らしは、誰にとってうれしい暮らしなのだろう。わたし個人が個人として暮らす、その共同体としての世界を、生活を、どうやってわたしとあなたで、まだ出会ったことがない大切なあなたも、一緒に生きていくためにはどうしたらいいのだろう。

* * *
冒頭で書いた『害悪』は、人工知能によって管理された仮想空間で行われる第三次世界大戦下の暮らしが描かれていました。殺し合いが行われているのは現実ではなく仮想空間の中だから、ふつうに暮らしてしまえば、血が流れていることが見えない世界。上演に向けた<主宰からの長いお手紙>というもので、脚本・演出の升味加耀さんは、こんなふうに綴っていました。
見えなければ、考えなければ、なかったことになる。
なんてことはないんじゃないかな。
残念ながら、私たちは見えない誰かとも、結局強く繋がってしまっているから。
『害悪』は想像通りものすごいパワーのある作品で、見終わった後わたしはくらくらと倒れこんで、まだ病み上がりのからだをどうすることもできないまま、眠った。起きて、また一日が経って、わたしの一日も、誰かの一日も過ぎていることを思いました。一年間の日記をまとめてこの本をつくっても、どうしたらいいのか、どうしたらよかったのか、何を書くことができたのか、この日記に意味があったのか、いまも当然のようにわかりません。もっと言ってしまえば、この本を読んで周りの人がどう思うのか、また自分のことばかり考えている。2週間が過ぎる、一年が過ぎる、日付があることの残酷さは、日記が続くうれしさと、いつも親密に寄り添っています。
それでも、さっきの升味さんのお手紙はこう続きます。
だからこれは、私たちが「生きるため」の演劇であるかもしれません。
『もっとも小さい日の出』も、生きていくための日記です。後出しで恐縮ですが、たぶんつくっているときからそう思っていて、だからこの言葉を読んで深く頷いた。こんなことを書くのはほんとうにこわい、でも去年も、わたしはこわいということを書いていました。これまでの日記本と変わらず、わたしは満月や気圧で体調を崩したり、近所のねこに挨拶をしたり、ミスドやバーミヤンに行ったり、映画や演劇に感動したり、季節の果物を食べたり、カネコアヤノとスピッツはいつも日々に寄り添って、部屋はあかるかったりほの暗かったり、そういう毎日が続いています。歯列矯正の相談にさんざん行ったのに結局まだはじめられていないし、転職エージェントとは初回の面談をしただけで何もしていないし、あんなに熱心に観ていた『虎に翼』の最終回は見逃したままだし、わたしはそんな感じです。あなたはどうですか? って、会ったことがある人のこともない人のことも、その顔を思い浮かべながら、思っています。
* * *
同じようなことを、同じような言葉で書きつけてばかりだな、と思います。だからこそ、これからも同じようなことを書き続けるのなら、ひとりでつくるよりも信頼する人に出会いたい、と思い、今回のブックデザインはCatの佐藤翔子さんにお願いしました。はじめてお会いした日からずっとわたしのためにその技術とこころを寄せてくださり、すばらしくかわいい、凛とした佇まいの本を完成させてくださいました。ぜひ、実際に手に取っていただけたらうれしいです。
長々と書きましたが、とにかくこれは生きていくための日記です。そう言い切る勇気のために、この本をつくったような気もします。明日、もしくは遠いいつかにきっと出会いましょうね、すべてのことをよろしくお願いします!

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『もっとも小さい日の出』
リトルプレス/四六判変形/196ページ
税込1,430円(→日記祭当日に限り1400円で販売します!)
2024年12月8日 第一刷発行
ブックデザイン:Cat佐藤翔子
印刷・製本:株式会社イニュニック
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『第5回 日記祭』
日時:2024.12.8 sun 11:00-17:00
場所:下北沢BONUS TRACK
ブース:柴沼千晴としらい弁当(2階ラウンジ内)
https://note.com/nikki_tsukihi/n/nd3457ca5750c
お取り扱い書店(2025.2時点)
✴︎日記屋 月日(東京)
✴︎青山ブックセンター本店(東京)
✴︎button(宮城)
✴︎本屋ブーケ(群馬)
✴︎栞日(長野)
✴︎ヨット(静岡)
✴︎本のすみか(大阪)
✴︎本の栞(兵庫)
✴︎かみつれ文庫(和歌山)
✴︎図書室ふたつの月(三重)
✴︎KIMAMA BOOKS(宮崎)
✴︎玉葱堂書店(オンライン)
✴︎しらい図書(オンライン、イベント出店ほか)
引用:
【主宰からの長いお手紙✉】
— 果てとチーク (@hatetohoppe) 2024年11月19日
公演前の主宰からの「長いお手紙」。
今回の公演に向けたお手紙をみなさまにお届けします。#果てとチーク『害悪』、いよいよ、今週開幕です。 pic.twitter.com/Ua5eb2r0Pn
日記本『親密圏のまばたき』について
このタイトルが最初に思い浮かんだときのことを、もうはっきりとは思い出せないけれど、いつもタイトルを決めるときにはこれ以外考えられない、という気持ちになる。決意というより諦念のような、もうその視線から逃れられない、運命のような。
2023年12月10日に下北沢BONUS TRACKで開催される「第4回 日記祭」に、『親密圏のまばたき』という新刊の委託販売で参加します。これはわたしにとって3冊目となる日記本で、既刊『犬まみれは春の季語』『頬は無花果、たましいは桃』の(間は空いていますが)つづきの日々、2023年6月1日〜11月19日をまとめたものです。でもわたしの中では、既刊とは少し違う心持ちでつくったものでもあり、いま考えていることをちゃんと言葉にしておきたいな、と思い、この文章を書いています。

時は戻って今年の2月、パフォーミングアーツの祭典『シアターコモンズ ’23』のプログラムのひとつとして開催された中村佑子さんのワークショップ「まなざしはまなざされない」に参加しました。これはシネエッセイ=映像のエッセイの作品をつくる、という内容で、そもそも映像を撮った経験もないわたしでしたが、たぶんそのお知らせを見たときの気まぐれで、でもどこか運命みたいにも感じて、何かを願うような気持ちで応募していたのでした。ワークショップは全3回で、そのうち1回、中村さんに制作や思索の途中経過を相談し、その様子を他の受講者も聞いている、ワークインプログレスの時間があったのですが、そのとき、初対面の(もしくは何も知らない)人の切実さを教えてもらう、というはじめての経験をすることになります。ワークショップの最終日、わたしはそんなつもりはなかったのに泣いてしまって、それは自分の作品について講評を受けたときではなく、他の受講者の発表を聞いているときでした。皆さんそれぞれ、さまざまなテーマで作品をつくられていたのですが、その中には、そんなにも大きな、あなたの人生そのものみたいな思索を、何も知らないわたしなんかが教えてもらってしまっていいのでしょうか、と思うようなものもあり、その切実さに、何と言えばいいかわからないけれど強くこころを動かされてしまったのでした。問いを立てる、その問いが自分の人生を揺るがす、作品として昇華させる。自分の人生や日々において無視できないことを作品にするという、他の誰でもない自分として生きていくことそのものを体現した営みの切実さを、これでもかと間近に感じる体験。そして中村さんはそのことを「節目ごとにこういったものをつくると、また思い悩んだときに〈あのとき一度終わらせたから大丈夫〉と思える」というようなことを(たぶん)話されていました。アートやクリエイティブなものに親しんでいる方であれば、こういうできごとは当たり前にあることなのかもしれないのですが、わたしにとってはその体感やてざわりが、これから眺めわたす世界を揺るがすようなものだったのです。
ではわたしは、というと、ここ数年、親密さということについてずっと考えていました。血縁や婚姻、恋愛、性愛などの関係性やそれに近いものをあらわす言葉があり、その上に、当然いくつもの固有の関係性がある。でも、わたしにとってもっとも大切にしたい生活というものは、名前のついた関係性の、ふたり組のそれがもっとも良いとされることをどう捉えればよいかわからない、そんなふつふつとした気持ちを抱えていました。でもあの2月に起きたできごとがわたしのからだに流れて、この気持ちを抱いたまま過ごす日々の日記をまとめたら、何かを言うための題材としてではなく、そこにただ〈ある〉ものとして言葉にできるのではないか、と考えました。そうしてはじめて自分の切実さをかたちにしようと試みたのが、『親密圏のまばたき』です。
とは言え、これがわたしの切実さなんだ、ということを本の中に明記しているわけではないですし、この文章を読んだ人に日記本を買ってほしいわけでも、日記本を手に取ってくださる人全員にこの文章を読んでほしいわけでもありません。ただこういうことを思ってつくった、ということを、どうか残しておきたかった。こんなことを書いておきながら、知らない誰かの日記のひとつとして読んでほしいとも強く思っています。
この切実さが一生つづくのかわかりません。忘れてしまうようなことがあるでしょうし、誰かの切実さを置いて、自分だけが幸せそうな顔をしてしまわないか、誰かを傷つけるんじゃないか、そもそもわたしのこの切実さはとても些末なものなのではないか、そんな不安がとても大きいです。それでもきっと、わたしは今回、この本をつくることができてよかったと思っています。どうか思いたい。
こんなことをインターネットに書いてしまってほんとうにこわい! 自分のほんとうのことを書いたり表現したりするのは気が遠くなるほどこわくて、どうか一生つづけていきたいけれど、毎回こんなにこわくて難しくて、こわがりのわたしはどこまでその自分と向き合うことができるのだろう、と考えています。きっと晴れるようですね、12月10日は下北沢にいます。
2020/10/12
一昨々日まで金木犀が咲いていた場所の足元があっという間に橙色に染まった。道を歩けば落ち葉の代わりにマスクがぽつぽつと落ちていて、去年は知らなかった景色にぼんやりと息を吐く。わたしが歌人だったら、きっとこの風景を鮮やかに詠むけれど、散歩しか趣味がない会社員なので駅まで黙々と歩く。
今日は前から有休を取ると決めていて、こころ穏やかに過ごすことだけを目標にした。朝目を覚ましてシーツとタオルケットを洗濯し、昨日買っておいた白いちじくのベーグルをトースターで温める。バターを出しておいたけどいらなかった。ここ数週間でちらほらと映画館に足が向くようになって、『行き止まりの世界に生まれて』や『ストーリー・オブ・マイライフ』を観たりしている。今日は渋谷のヒューマントラストシネマで『星の子』を観た。本当のことと本当じゃないこと、いま目に見えているものと見えていないもの、わかっていることいないこと。それらのあわいに立ちながら揺れ動く主人公の機微が淡々とスクリーンを進めていく。さまざまが重なりあっていまの世界がある、という当然の理りがしたためられた物語の切り取り方とエンディングは言うまでもなく無数にあって、わたしが映画を好きな理由はこれに尽きるのだと思う。
そばにいてくれる人のいるいないにかかわらず、わたしたちは本当にひとりで立たなければならないのだと事あるごとに突きつけられますね。ちょっと良いケーキを一緒に食べてくれる人たちに光を贈り返したいという気持ちだけが募る秋です。ずいぶんと時間が経ってしまって、夏至のわたしとはぜんぜん違う。はさみの切れ味が悪くなっていることに気づかないまま、せめてテレビの音量は下げている。眩さが陰りゆく季節のはじまりに、届かない返事を待っている。
2020/6/20
夏至だし日記を書いておきたい、と思ったけれど、取り立てて書くことがない。最近のわたしは本当にだめでとにかく横になっている時間が多いので、自分が人の群れのなかでどのように行動する人間だったのか自分でもわからなくなっている節があって、こうして気持ちの話ばかりしてしまう。昨日のうちにからがら朝8時に電車に乗って、また実家に帰っていた。うつらうつらしながら乗る下りの千代田線は、始発で下北沢から帰る電車と同じ匂いのそれだった。晴れやかさは何かを肯定しているようで、その温度差に耐えきれずぼんやりと目を閉じる。
今週は先週と同じリビングで、『バックトゥ・ザフューチャー2』『GODZILLA』『ジョーズ』を観た。どれも久しぶりに観たので、物語の筋や結末の細かな部分をほとんど忘れてしまっていて、まるで初めて観るかのように楽しめたのがよかった。そこにあるのはいつも勇敢さだった。わたしは昔から感動したくて生きているみたいなところがあったのだけれど、世界にこういうことが起きてこれまで見ずに済んだもの(これはネガティブな表現ではなく、本当の意味での形容)が目の前にあり、わたしが人生で出会うはずだったその感動と名前がついた何かは、当然のようにかたちを変えていくのだと静かに感じている。自分の暮らす社会でそれはゆるさない、というはたから見ればよわよわしくも見えるであろう意志が、そもそもこの場所で正しくありたいと願うこと自体が間違いなのかもしれない、という手ごわい重りに対してあるべきバランスを探る日々。何度も言うけれど、ただそこにある、ということに、良くも悪くもわたしたちはずっとまなざされているのだと思います。自家製の梅シロップと六花亭のレーズンサンドを少し分けてもらって、上りの千代田線のなかでいまこれを書いている。既製品のおまじないでも、出来るだけ多いほうがいい。
最近は誰かの日記や日記のようなものを読むのが嬉しくて、限られた人しか知らない出来事をこころのうちで交換することで贈りあえる結晶をかぞえている。そうやって、名前のない関係性は揺るぎなさを増していくように思います。せめて梅雨が早く終わってほしい。一輪挿しのようなかすかなひかりをかざしながら、ふらふらと半蔵門線に乗り換える夜。
2020/6/19
最寄りまでの徒歩10分、雨の日はやっぱり少し遠い。実家のときは目と鼻の先に駅があったから(その代わり、駅ビルどころかコンビニも電光掲示板すらない、ローカル単線のプレハブ小屋のような駅です)、最初はとても億劫な気持ちだったけれど、道端に落ちている誰かの生活の欠片にいちいち胸をつかまれながら歩くのは悪くない。たとえば、小さな飲食店の「お酒の販売を始めました」ではなく「酒販免許を取りました」という張り紙の、親しい友人へしたためた手紙のような筆跡。あるいは、おそらく片足の厚底がほとんど剥がれたために脱ぎ捨てられ、置き去りにされたレースアップシューズのエナメル素材に反射する光。こういうものを少しずつ吸い込んで、他者の息づかいを感じながら何とか生きながらえている感覚がいつまで経っても消えなくて、わたしは東京の街を散歩するのが好きになった。帰り道も、まだ靴は同じ場所にあった。
大きないくつかの悲しみとたったひとつの喜びに出会った一日でも、日記には後者を何十倍にも膨らませて書き連ねてしまう。誰もがそうやって生きているということ、わかっているのに普段は正直ほとんど思い出せないな。先生の話を聞かずに、国語便覧や地図帳をひっそりとめくる授業中のようなささやかさが、きみの周りにもあってほしいと思う、うまく言えないけれど。
夕飯はまた絹さやを茹でた。今日も、筋を丁寧に取る。茹で上がったら氷水にさらす。そういう自分のことが好きだと思う。「この間スーパーで絹さやを見たとき、あなたのことを思い出したよ」という友人からの連絡を握りしめて、梅雨の夜更けは明かりを消して。
2020/6/16
朝から緊張する予定をこなしたあと、駅前のカフェに立ち寄ってアイスココアをテイクアウトした。疲れているときや体調がいつもと違う日に、普段なら頼まないようなものを注文してしまうことはよくあって、今日も思いがけずどしんと構えたホイップクリームの山にたじろいでしまう。外に出ることを少しずつ繰り返すたびに、季節が自分のものになっていくようで、季節をゆるしていなかったのはわたしの方だったのだと気づく。日陰を選んで歩いても、家に着くころにはホイップクリームもわたしも半分でろでろに溶けていた。カップに残った氷がからからと音を立てた分だけ、夏は一足早くやってくるのかもしれません。季節は巡るものだけれど、日々は積み上げるものだと決めた人が一番好きな季節は、きっと夏だったんじゃないかと思う。
ミワさんの日記本『蒸し暑くなる少し手前の朝5時に』が一昨日届いていたから、ここ二日はそれを鞄にしのばせていた。朝、本棚から一冊えらんでお守りのように持ち歩くのがここ数年の決まりごとなのだけれど、それでいて自分のものを丁寧に扱うことがどうしてもうまくできないから、いつもペットボトルの水滴でしわしわにしたりなんだかよくわからないしみをつけたりしてしまう。日記本は今回も甘くないホイップクリームみたいに真っ白で、今回こそはと気合いを入れる。わたしも続いたり続かなかったりしながら、文章をやめずにいられたらと願う。
夕方のこと。突然に景色がかがやき出す瞬間は本当にあることをとうに知りながら、待ちぼうけをかますような夕焼けの最中で、手紙のような日記のような、とにかく宝物みたいな文章をもらいました。彼と過ごす時間や彼から発せられる言葉を目の前に、映画みたいだ、と感じたことは今回が初めてではなくて、そのほの明るさが何物にも代えがたくきらめくたび、わたしはとても嬉しかった。先述した日記本に鉛筆で線をひいた〈どこが情けなくてさびしくて、それでもずっと続く日常の中に喜びを見出して生きている人たち〉というラインがよぎります。それぞれの場所でそれぞれの暮らしを重ねる大切な人が、できるだけ悲しまずにいてほしいと祈りながら暮らしていることを前提に、とはいえ祈るだけでは足りないこともすでにわたしたちは知ってしまっていて、悲しみに見透かされる前に手を取り合えたら、という新しい祈りの話。
忘れてしまう夏と忘れられない夏なら、後者の方がきっと良いとわたしは思うから、会いたい人の声をきちんと聞ける夏にしたいと思います。すべてがゆるされる季節へ、ありったけの親密さを込めて。