はす向かいにて

柴沼千晴/日記や文章

2019/10/31 誰もが光を握っている

カネコアヤノを銭湯で観た。

2019年10月31日、祝日でも何でもない木曜日の昼下がりに、わたしは高円寺にいた。ハロウィンだということも思い出さないまま、みるみる冷え込む季節の始まりに気がつかないふりをしながら、この街でわたしだけが舞い上がっているような雑踏を、ゆっくりと進む。

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映画『わたしは光をにぎっている』が11月15日から公開されることを記念して行われた、『映画「わたしは光をにぎっている」×主題歌生演奏付きトークイベントin銭湯』。小杉湯というその場所は、高円寺らしい商店街のざわめきから一本だけ離れた路地裏にある。ついこの間観た映画は、バイト先の銭湯が実は殺人に使われていた!という設定だったけれど、ここはそんなことは絶対にないだろうなと思えるすがすがしさが気持ちいい。お風呂の椅子が10つ、こじんまりと並べられているさまがなんだか可笑しくて、くすぐったい。

15時。松本穂香、カネコアヤノ、中川龍太郎監督がそそくさと登場して、湯船の前に並ぶ。こういうときの空気は、すんっとした匂いがすることをわたしは知っている。主題歌決定のいきさつや映画の好きなシーンを話す3人は、どこかかわいらしいよそよそしさがあって、お互いへの愛が交差しているのが見える。ぽつぽつと言葉をこぼすように話す松本穂香に対して、カネコアヤノの言葉はわたしの頭の中みたいにいろいろなところへ飛び散って、たまに視線をずらすと、けらけらと笑う彼女が壁に並んだ鏡のなかで揺れていた。

本作の主題歌「光の方へ」を初めて聴いたとき、これはわたしの人生のテーマソングになるのだと、本気で思ってしまった。自分のために歌われていると感じる歌については、これまでもさんざん考えてきたつもりだけれど、そういう論理で整理できないような波紋がひろがっていくざわめきが確かにあった。音源では飽きるほど聴いたイントロの軽やかなストロークは、この近さで聴くとさわやかな重厚感すらある。銭湯という場所の特性からくる響きの良さはもちろんだけれど、直接胸へと飛び込んでくる躍動感はきっと、映画と深いところで手を取り合いながら築き上げられた共鳴がかたちになって表れているのだと感じた。

ああ 靴のかかと踏んで歩くことが好き

好きなものやことについてこれほど屈託なく歌える彼女は、本当に希望だと思う。明るい歌にしてほしい、という中川監督からのオーダーがなかったら、しっとりとした曲を作っていたかもしれない、とさっき話した彼女の口元はスローモーションみたいになめらかに動いて、これだけで一本の映画になってしまいそうな美しさがあった。彼女は力を込めて歌うとき、決まって身体をのけぞらせたり傾けたり背筋をのばしてみたりするのだけれど、わたしはそれがたまらなく好きだ。大げさではなく世界がひろがったように感じると同時に、いま存在する世界はここだけのような気もする。「光の方へ」はもちろん、東京に出てもがきながらも未来へと進んでいく本作の主人公・澪の歌であることに間違いはないのだけれど、自分の人生に"人生"を感じたくて、良くも悪くも自分の人生らしいと思える暮らしをしたくて都会に住むことにしたわたし自身の歌でもあるし、そうじゃない誰かの歌でもあるのだ。この映画は、エンドロールで流れる主題歌も含めて物語だと語る3人が眩しい。空は、晴れに限りなく近い曇りだった。

小杉湯を出たものの、どきどきする心を抑えきれなくて、駅の向こうの誰にも教えたくないほど好きな喫茶店へ急ぐ。その途中でふと思い立って寄った本屋で、好きな詩人のあたらしい詩集を買う。喫茶店はいつもよりどことなくせわしない感じがして、食器の音がかすかに響いていた。お気に入りの席に腰掛ける。詩集につけてもらったブックカバーを剥がして、その裏にこのつれづれを走り書きする。"光"という言葉から連想されるさまざまが、薄茶色の裏紙を埋め尽くしていく。そういえば、いつかに読んだ「人(生物?)は死に際に光を発する」みたいな話って本当なのかな。わたしはその光とはまだ遠いところで、最後まで生き延びてみようと思う。

映画『わたしは光をにぎっている』予告編 - YouTube