はす向かいにて

柴沼千晴/日記や文章

日記本『親密圏のまばたき』について

このタイトルが最初に思い浮かんだときのことを、もうはっきりとは思い出せないけれど、いつもタイトルを決めるときにはこれ以外考えられない、という気持ちになる。決意というより諦念のような、もうその視線から逃れられない、運命のような。


2023年12月10日に下北沢BONUS TRACKで開催される「第4回 日記祭」に、『親密圏のまばたき』という新刊の委託販売で参加します。これはわたしにとって3冊目となる日記本で、既刊『犬まみれは春の季語』『頬は無花果、たましいは桃』の(間は空いていますが)つづきの日々、2023年6月1日〜11月19日をまとめたものです。でもわたしの中では、既刊とは少し違う心持ちでつくったものでもあり、いま考えていることをちゃんと言葉にしておきたいな、と思い、この文章を書いています。

 

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時は戻って今年の2月、パフォーミングアーツの祭典『シアターコモンズ ’23』のプログラムのひとつとして開催された中村佑子さんのワークショップ「まなざしはまなざされない」に参加しました。これはシネエッセイ=映像のエッセイの作品をつくる、という内容で、そもそも映像を撮った経験もないわたしでしたが、たぶんそのお知らせを見たときの気まぐれで、でもどこか運命みたいにも感じて、何かを願うような気持ちで応募していたのでした。ワークショップは全3回で、そのうち1回、中村さんに制作や思索の途中経過を相談し、その様子を他の受講者も聞いている、ワークインプログレスの時間があったのですが、そのとき、初対面の(もしくは何も知らない)人の切実さを教えてもらう、というはじめての経験をすることになります。ワークショップの最終日、わたしはそんなつもりはなかったのに泣いてしまって、それは自分の作品について講評を受けたときではなく、他の受講者の発表を聞いているときでした。皆さんそれぞれ、さまざまなテーマで作品をつくられていたのですが、その中には、そんなにも大きな、あなたの人生そのものみたいな思索を、何も知らないわたしなんかが教えてもらってしまっていいのでしょうか、と思うようなものもあり、その切実さに、何と言えばいいかわからないけれど強くこころを動かされてしまったのでした。問いを立てる、その問いが自分の人生を揺るがす、作品として昇華させる。自分の人生や日々において無視できないことを作品にするという、他の誰でもない自分として生きていくことそのものを体現した営みの切実さを、これでもかと間近に感じる体験。そして中村さんはそのことを「節目ごとにこういったものをつくると、また思い悩んだときに〈あのとき一度終わらせたから大丈夫〉と思える」というようなことを(たぶん)話されていました。アートやクリエイティブなものに親しんでいる方であれば、こういうできごとは当たり前にあることなのかもしれないのですが、わたしにとってはその体感やてざわりが、これから眺めわたす世界を揺るがすようなものだったのです。

 


ではわたしは、というと、ここ数年、親密さということについてずっと考えていました。血縁や婚姻、恋愛、性愛などの関係性やそれに近いものをあらわす言葉があり、その上に、当然いくつもの固有の関係性がある。でも、わたしにとってもっとも大切にしたい生活というものは、名前のついた関係性の、ふたり組のそれがもっとも良いとされることをどう捉えればよいかわからない、そんなふつふつとした気持ちを抱えていました。でもあの2月に起きたできごとがわたしのからだに流れて、この気持ちを抱いたまま過ごす日々の日記をまとめたら、何かを言うための題材としてではなく、そこにただ〈ある〉ものとして言葉にできるのではないか、と考えました。そうしてはじめて自分の切実さをかたちにしようと試みたのが、『親密圏のまばたき』です。

 

とは言え、これがわたしの切実さなんだ、ということを本の中に明記しているわけではないですし、この文章を読んだ人に日記本を買ってほしいわけでも、日記本を手に取ってくださる人全員にこの文章を読んでほしいわけでもありません。ただこういうことを思ってつくった、ということを、どうか残しておきたかった。こんなことを書いておきながら、知らない誰かの日記のひとつとして読んでほしいとも強く思っています。


この切実さが一生つづくのかわかりません。忘れてしまうようなことがあるでしょうし、誰かの切実さを置いて、自分だけが幸せそうな顔をしてしまわないか、誰かを傷つけるんじゃないか、そもそもわたしのこの切実さはとても些末なものなのではないか、そんな不安がとても大きいです。それでもきっと、わたしは今回、この本をつくることができてよかったと思っています。どうか思いたい。

 

こんなことをインターネットに書いてしまってほんとうにこわい! 自分のほんとうのことを書いたり表現したりするのは気が遠くなるほどこわくて、どうか一生つづけていきたいけれど、毎回こんなにこわくて難しくて、こわがりのわたしはどこまでその自分と向き合うことができるのだろう、と考えています。きっと晴れるようですね、12月10日は下北沢にいます。

 

日記祭の詳細:第4回「日記祭」を開催します | 日記屋 月日

2022/9/25

この日の日記は、me and you little magazine & club「同じ日の日記」に掲載されています。こわいもの/柴沼千晴 | me and you little magazine & club

天気が良すぎてこわい、ということを、自分で思ったのか誰かが言っていたのか忘れてしまった。月に何度かある、日曜日だけれど早く起きる日。地域猫のうに( わたしが勝手に名づけているだけで、 たぶんいろいろな名前で呼ばれている)はいつもの場所にいて、 おでこを撫でさせてもらう。いくら触ってもいやそうにしないこの温度に安心する、シースルーの長袖がちょうどいい朝。

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9月から、日記のワークショップというものに参加している。下北沢にある日記屋さん、日記屋月日が主催しているもので、お互いの日記を読み合い、 考えたことや感じたことを共有する。わたしは今年の1月1日から日記をつけはじめ、春にそれを本にまとめてから、日記のすばらしさとそれに対する依存のような気持ちを同居させて、いまも毎日書き続けている。今日はそのワークショップの第2回だった。

日記を数週間読み合っているけれど、 会ったことは一度しかない人たちと、 たまの日曜に同じ場所に集う。 もちろんまだあまり親しくない人たちの前で話をしたり、 自分が考えているさまざまなことを話し出すのにはそれなりに勇気がいるのだけれど、日記を読み合っている=お互いの日々を( 表面的にかもしれないけれど)知っている、という出会い方の良さは、この世のすべての人に伝えたい。それに、人が考えていることを聞く時間は楽しい。それぞれが日記をつけること、日記を読むことに対してさまざまな思いを巡らせていて、そうだよね、と思ったり、そうなのか、と思ったりする。わたしはと言えば、感じた気持ちやできごとをうまく書けないとき、それがこの日として残されてしまうことへのこわさの話をした。結論が出る話はひとつもない、それでも、そうだよね、と、そうなのか、を繰り返し、それぞれの思いでまた日々に帰っていく空間の面白さ。 特に印象に残ったのは、「引き出しの取っ手をつくるようにメモをとる」という話、思い出すこと、書くこと、 書かないことがある日記ではもちろんだけれど、取っ手をつくる、というのは、人との対話においても同じでありたいと思った。朝よりも強い陽射しが大きな窓に反射するたびに、頬がじゅわっとする。

終了後、日記を介して出会った友人にランチに誘ってもらい、駅の方面に歩き出す。「どこ行きましょうか」「うーん、 どこか知っているお店ありますか?」「ひとつあるんですが」「 そこでお願いします」「ゆっくりできるお店で、かかっている音楽もすごくいいんですが、音が大きいんですよね」「聴いてほしいのかもしれませんね」、 連れていってもらったのはアジア料理のカフェだった。ソファの席に座ったら、彼はセルフサービスのお冷を汲んできてくれて、青色と琥珀色のグラスのどちらがいいですかと聞いてくれた。 最近考えていることをお互いに話す。

彼は最近あった魅力的な会話をする人について話してくれた。 わたしは、誰にも言ったことのない、言おうとすら思っていなかったことをするすると話していた。重なる言葉と空気(と音楽)、人の言葉を引き出すこと、「ここでしか生まれない会話ですね」と話す。わたしのよくわからないエピソードを最後まで黙って聞いてくれた彼は「人のこういう話ばかりを聞いて暮らしていきたい」というようなことを話していた。その言葉を反芻する京王線は、いつもより冷房の効きがやわらかだった。帰り道、家の近くの酒屋で「 日本酒一杯100円」の手書き看板が出ていて、 街の賑わいに感動する。スーパーで安くなっていたクリームチーズ 、ハム、ジャムを買って帰る。

今日の日記に書くことではないけれど、昨日も今日みたいな一日だった。わたしはこの気持ちを知っているな、と思い、ツイッターをさかのぼる。

ここ最近の日々が泣いちゃうくらいに幸せ わたしが大好きな人たちへ、もしもさっき交わしたまたね~のまたが何かの拍子で一生こないとしても、わたしの見えないところでもいいから絶対に長生きしてくれ(2019年12月30日のツイー ト)

このときも、楽しいや嬉しいというだけではなく、人とのここでしか生まれない会話を重ねてこんな気持ちになっていた。 ひとつだけあのときと違うのは、もしもう一生会えなくてもわたしの知らないところでお元気でいてね、と思っていたわたしはもうここにおらず、どうかやさしい世界がこわれないでほしいと祈っていること。わたしだけが大事にしていればいいのかもしれない日々、これを読んでくれた人にもすべてが伝わるわけでは決してない、わたしだけの日々。そんな日々をこの上ないと感じるいまほど、こわいものはないと思う。

2020/5/14

花をかたどったフィナンシェが、日常に溶け込むタイプの宝石のようだと思えたこと。誰が触ったかわからないトングで取る無防備なサラダバーが恋しいこと。季節にゆるされたわたしたちが堂々とひかりの下で肯定を交わしあう夏まで、あとどれくらいの陽射しが必要なのか考えている。

あのときそうしていれば、こちらを選んでおけば、あんなことが起きなければ、生まれる時代が違かったら。さまざまなニュースを目にするたび、誰かが選べなかった選択肢の先を思います。‪わたしが上辺のすこやかさを必死に守っているあいだに、それぞれの精神を削って何かを守ろうとしてきた人たちがいること、どちらが正しいとかでは決してなく、どちらもこの社会で暮らしを続けているという想像力だけは失わずにいたいと思う‬。

2020/5/11

日記を書こうと決めたのは、今日の昼下がり、こないだの最悪な休日に買っておいたちょっといいドリップコーヒーを入れようとしたらカップのふちに引っかけるツメがぼろっと取れてしまい、注いだお湯がコーヒーの粉で満たされていくのをぼうっと眺めているときだった。今日は何でもないただの月曜日で、変わり映えしないニュースと、春をまだ知らないままのわたしと、わたしを置いていくような燦々とした日差しが締めつけるリモートワークの部屋のそれぞれは本当に何でもないシーンだったけれど、こういうことは膨大な日々のなかですぐに忘れてしまうから、書き留めておくのもいいかもしれない、と単純にそう思ったのだ。

今日のこと。昨日のうちにポストに届いていたのに、どうしても取りに行けなかった分厚い小包は、書肆侃々房のオンラインショップで買った本だった。『ことばと』という文芸誌の創刊号に、ずっと気になっていたフェミニズムに関する本、それから岩手県盛岡市歌人・くどうれいんさんの新しいエッセイ集『うたうおばけ』。わたしはそれぞれの人生や暮らしに宿る物語を愛していたい、という気持ちが気づけば長らくずっとあって、きっと彼女もそうなんじゃないかと思っている。別に彼女のことを何も知らないけれど、勝手にそうだと決めつけている。最近触れたものだと、アマゾンプライムで久しぶりに観た『パターソン』やゴールデンウィークに時間をかけて読み返していたミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』も同じ理由で好きです。後者については何かの機会にしっかり書いておきたい。想像力の翼は、思いがけず突然にひろがるということ。一方で新しいものに出会う気概はわたしを見捨ててしまったようで、この数か月有意義なことはろくすっぽできていないのだけれど、これまでずっといとおしいと思ってきたものをいとおしいと思える気持ちだけはわたしを見放さないでね、と、実家から送られてきた大きな段ボールに潜んでいたパンダのぬいぐるみを撫でながら思う。

先述したドリップコーヒー事件がもし昨日起こっていたら、わたしはきっと泣きくずれて、食事ものどを通らず、生きる意味を見失っていた...…とさえ思ってしまうのだけれど、今日は真っ黒で無残によごれたカップを、いい香りだからとローテーブルに置いたままにできるほうのこころを持っていた。ラッキー。ネットフリックスとアマゾンプライムで配信がはじまったらしい『きみの鳥はうたえる』という映画で、染谷将太がコーヒーかすを灰皿みたいにするシーンが大好きで、いまここにたばこがあったら絶対にそうするのに、と思いながらいまもわたしのそばにある。残念ながら我が家にたばこはないので明日には捨てます。夕飯はピーマンの肉詰めと白菜のおひたしを作った。カネコアヤノを聴きながら料理をするだけの日々。

自分が大丈夫でいられる理由が自分の内側にもあればいいな、と祈る日々です。わたししか知らないわたしの事件はわたしだけのもので、そんなささやかさが毎日じゃなくてもいいから、わたしやわたし以外の誰かに訪れていることを想像しながら。わたしたちが愛してやまない、何も起こらないようで何かが起こっている物語たちは、きっとそんな風にできていると信じている。

2019/10/31 誰もが光を握っている

カネコアヤノを銭湯で観た。

2019年10月31日、祝日でも何でもない木曜日の昼下がりに、わたしは高円寺にいた。ハロウィンだということも思い出さないまま、みるみる冷え込む季節の始まりに気がつかないふりをしながら、この街でわたしだけが舞い上がっているような雑踏を、ゆっくりと進む。

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映画『わたしは光をにぎっている』が11月15日から公開されることを記念して行われた、『映画「わたしは光をにぎっている」×主題歌生演奏付きトークイベントin銭湯』。小杉湯というその場所は、高円寺らしい商店街のざわめきから一本だけ離れた路地裏にある。ついこの間観た映画は、バイト先の銭湯が実は殺人に使われていた!という設定だったけれど、ここはそんなことは絶対にないだろうなと思えるすがすがしさが気持ちいい。お風呂の椅子が10つ、こじんまりと並べられているさまがなんだか可笑しくて、くすぐったい。

15時。松本穂香、カネコアヤノ、中川龍太郎監督がそそくさと登場して、湯船の前に並ぶ。こういうときの空気は、すんっとした匂いがすることをわたしは知っている。主題歌決定のいきさつや映画の好きなシーンを話す3人は、どこかかわいらしいよそよそしさがあって、お互いへの愛が交差しているのが見える。ぽつぽつと言葉をこぼすように話す松本穂香に対して、カネコアヤノの言葉はわたしの頭の中みたいにいろいろなところへ飛び散って、たまに視線をずらすと、けらけらと笑う彼女が壁に並んだ鏡のなかで揺れていた。

本作の主題歌「光の方へ」を初めて聴いたとき、これはわたしの人生のテーマソングになるのだと、本気で思ってしまった。自分のために歌われていると感じる歌については、これまでもさんざん考えてきたつもりだけれど、そういう論理で整理できないような波紋がひろがっていくざわめきが確かにあった。音源では飽きるほど聴いたイントロの軽やかなストロークは、この近さで聴くとさわやかな重厚感すらある。銭湯という場所の特性からくる響きの良さはもちろんだけれど、直接胸へと飛び込んでくる躍動感はきっと、映画と深いところで手を取り合いながら築き上げられた共鳴がかたちになって表れているのだと感じた。

ああ 靴のかかと踏んで歩くことが好き

好きなものやことについてこれほど屈託なく歌える彼女は、本当に希望だと思う。明るい歌にしてほしい、という中川監督からのオーダーがなかったら、しっとりとした曲を作っていたかもしれない、とさっき話した彼女の口元はスローモーションみたいになめらかに動いて、これだけで一本の映画になってしまいそうな美しさがあった。彼女は力を込めて歌うとき、決まって身体をのけぞらせたり傾けたり背筋をのばしてみたりするのだけれど、わたしはそれがたまらなく好きだ。大げさではなく世界がひろがったように感じると同時に、いま存在する世界はここだけのような気もする。「光の方へ」はもちろん、東京に出てもがきながらも未来へと進んでいく本作の主人公・澪の歌であることに間違いはないのだけれど、自分の人生に"人生"を感じたくて、良くも悪くも自分の人生らしいと思える暮らしをしたくて都会に住むことにしたわたし自身の歌でもあるし、そうじゃない誰かの歌でもあるのだ。この映画は、エンドロールで流れる主題歌も含めて物語だと語る3人が眩しい。空は、晴れに限りなく近い曇りだった。

小杉湯を出たものの、どきどきする心を抑えきれなくて、駅の向こうの誰にも教えたくないほど好きな喫茶店へ急ぐ。その途中でふと思い立って寄った本屋で、好きな詩人のあたらしい詩集を買う。喫茶店はいつもよりどことなくせわしない感じがして、食器の音がかすかに響いていた。お気に入りの席に腰掛ける。詩集につけてもらったブックカバーを剥がして、その裏にこのつれづれを走り書きする。"光"という言葉から連想されるさまざまが、薄茶色の裏紙を埋め尽くしていく。そういえば、いつかに読んだ「人(生物?)は死に際に光を発する」みたいな話って本当なのかな。わたしはその光とはまだ遠いところで、最後まで生き延びてみようと思う。

映画『わたしは光をにぎっている』予告編 - YouTube

2019/9/20 思い出ではない日々のゆくえ

天気の話は、気まずいエレベーターの中の空気を和ませるためでも、あんまり乗り気になれない打ち合わせのアイスブレイクのためでもなく、本当に天気が良い時にしたいものだなあと思う。小洒落た居酒屋でクラフトビールを飲むのもいいけれど、夏の終わりには知らない公園のブランコに揺られながら何でもない話をしたいし、誰かの家で日が暮れるまでゲームをしたい。話したいことだけを話せばいい相手と、思うよりも先に口をついてしまうくらいの軽やかさで何かを確かめていたいし、あの時は忘れたかったことも、本当は何歳になっても忘れたくない。青春時代には確かにあったそういうささやかさを大人になっても生活のなかで積み上げていくのだという意思を、じんわりと思い出すような時間があるといい。

2019年9月20日、The Whoops初のワンマンライブを観た。6月にリリースされた、『FILM!!!』以来3年ぶり2枚目のフル・アルバム『Time Machine』を引っ提げて全国を周った「遅れてきたTime Machineツアー」の最終日。会場の下北沢BASEMENT BARは開演前から終始和やかな空気が流れていて、バンドとファンの温かな関係性が伝わってくる。先に書いておくが、ライブは思ったよりも長くやった。ライブ中VoG.宮田が何度も「ワンマンなげー!」とこぼしながら、Ba.森が「本日は90分を予定しているんですけれども~」となぜか申し訳なさそうに話しながら、ダブルアンコールまでの25曲、気がつけば2時間15分。それは彼らのキレッキレのMCがいつも通り炸裂していたからに他ならないが、それと同時にメンバーも観客も、この日だけの感慨深さを抱きしめていた結果であることは言うまでもない。

序盤はTime Machineパートと表して、アルバムの楽曲群をおよそ曲順に披露していく。冒頭“春について”から、全速力で駆け抜けていくようなまっすぐさと一筋縄ではいかないもどかしさを同居させるアンサンブルは、ライブが始まったばかりにもかかわらず切ない終わりを想起させる。続く“天気予報”ではさらっと歌われる〈忘れたかったこと/今も覚えている〉という鋭利なラインに誘われるように、伸びやかに響く宮田のボーカルとそれに拍車をかける森のコーラスが、物語に色をつけていく。それがこれまでよりもドラマチックに響いてくるのは、ボーカルと楽器のそれぞれに力がこもる瞬間の共鳴がこれ以上なく機能していたからかのように思えた。メロディセンスが相変わらずびかびかと光っていることも軸となり、確かな相乗効果を発揮している。祈りにも近い切実さが、歌詞に登場する快速電車のスピードと錯綜しながらどこか愛おしく展開する “東京メトロ”、そしてアルバムのラスト、シンプルなギターが印象的な“time machine”で素直な言葉を届けるまで、今回のアルバムで表現の幅や深度の追及を実践しながらも、これまでと変わらない思いをさらに研ぎ澄ましていることが伝わってくる。

The Whoopsは暮らしを歌う。季節のこと、天気のこと、街のこと、日々のこと、それに似た何かを思い出したり思い出さなかったりした、いつかの暮らしのこと。そしてそこから立ち上がる「僕」と「あなた」のこと。どれだけ美しかった景色を胸に刻み込んでも、積み上げていくのは思い出というより日々だから、青春の質感は切り取って保存して、いつでも取り出せるようにしまっておく。いつまでも懐かしんでいたい気持ちを飲み込んで、人生を進めていくその曲がり角あたりで、久しぶりに昔の自分に会いにいくような心持ちで、わたしたちは彼らの音楽と共にある。過去の自分と今ここにいるわたしたちは決して切り離されず、思い出したくないことも忘れたくないことも日々増えていくーーそんな当たり前のことが、とても如実に浮き上がるライブだった。

中盤からライブは思い入れパートに突入。“ロマンチック”や“花の街”といったファンに長く愛される楽曲たちが、前編で披露した新しい表現から翻っての原点回帰だからだろうか、さらなる説得力をもって鳴っているのが印象的だった。BPMの速さに急かされて走り出してしまうような思いが、フロアの揺れを加速させる。バンドと観客の声がぴったりと合うシンガロングにかなりグッときてしまうのは、ここにいるそれぞれがそれぞれの生活を進める中で、いまお互いの人生が交わっている、という意味合いも強いのかもしれない。続く“恋をしようよ”で拳を突き上げるのも同様で、全力で演奏する彼らの、生き様というにはすこし仰々しい清々しさが、オーディエンスの感情を解放していく。『FILM!!!』以降の2枚のミニ・アルバムや初期(お土産として当時のデモ音源のQRコードが配られた)の楽曲も織り交ぜ、これまでのThe Whoopsを網羅したセットリストは、確実にドラマを纏っていた。一方MCでは、最近の出来事を屈託なく話してみたり、バンドの何気ない思い出をおどけて教えてくれたりする笑い声が心地いい。続く“リビング”や“湘南新宿ラインのテーマ”が、ちゃんとここにいる全員の音楽として共有できている様子も素敵だった。

本編最後は『FILM!!!』収録の“映画”だった。こっくりとしたアルペジオに合わせて、優しく呟くように歌われる言葉のひとつひとつが、しんと静まり返ったフロアに季節の匂いを取り戻す。繊細なワードセンスが光るこの曲がこの日ひと際メロディアスに聴こえたのは、きっと彼らのバンドとして越えてきたいくつもの季節とわたしたちそれぞれの日々の蓄積が、タイトル通り映画のようにドラマチックに交差した気がしてしまったから。中盤で披露された“夏の夢”にも〈誰かになれると思っていたけど/誰でもない/僕でしかないみたいだ〉というラインがあったが、何にもなれなかったわたしたちが、あの映画のワンシーンを待ち焦がれながらも人生を前に進めていくことを肯定するというメッセージを、この上なく真摯に届けたひとときだったように感じる。最後の大サビ、宮田は〈あの映画のワンシーンを〉と余韻たっぷりに、そして振り絞るように大事に歌った後、ピックを持った指先を数秒見つめてから、意を決したように〈僕らは待ち焦がれている〉と歌って、わたしはそれを本当に綺麗だと思った。彼らが歌う青春時代の胸を締め付けるような想いは、誰かに名前をつけられて一区切りにされるようなものでは全然なくて、明日からも続けていく、わたしたちの日々そのものである。曲の終わりで〈さよなら/さよなら〉と叫んでも、笑ってしまうほどさよならなんかじゃないのだ。

ほんの40秒ほどで袖から戻ってきた彼らは、MCもないまま『Time Machine』収録の“踊れない僕ら”へ。Enjoy Music Clubをオマージュしたというその曲では、Dr.須長がステージ脇のPCの前に立ち、宮田と森はハンドマイクで全力のラップを披露、オーディエンスの笑顔を誘う。楽しいことは何でもやるという彼ららしい挑戦が、最後まできらめき続けているところがとても良い。ひたすらに明るく、良い音楽をやるというその姿勢は、彼らの楽曲制作における日々を切り取る視点の鮮やかさに通ずるのかもしれない。アンコールのラストに歌われた“衛星”、そしてダブルアンコールで観客からの急なリクエストに飄々と二つ返事で披露した“ドライブ”に至るまで、新たな表情と「らしさ」の真ん中への行き来を繰り返しながら、観客と人生の呼吸を合わせていくようなライブだった。

バンドのライブの感想として、いろいろな意味で「面白かった!」が一番に出てくるバンドはいくつかいるけれど、それでいてこれほどまでに日常と地続きでいるバンドはあまり思いつかない。記憶や思い出がこれからも増えていくのなら、今のわたしたちも過去のわたしたちと同じように、よく晴れた日の空を好きな人と見上げながらただ綺麗だと言ってみたり、いつかの頃と同じ色をした夕焼けや朝焼けを見ながら自分でもよくわからない涙を流してみたりしていたいのだ。

The Whoopsの音楽には、そんな素晴らしい暮らしのすべてがあるのだと思う。

 

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